2012年6月21日木曜日

今日も「ハムばって」いけたかな?

バタバタと過ごしている毎日で、ちょっと気持ちがささくれ立っていたようです。
それに気付かせてくれたのは、家族が観ていたテレビから流れていたCMでした。

家の中をあちこちと動き回っていた時に、不意に真央さんの声が聞こえたような気がして振り返ると、「ハムばっていこ~」とおどける真央ちゃんのCM!妙齢のお嬢さんに「ちゃん」付けも「カワイイ」も失礼なのかも知れませんが、「真央ちゃん、かわいい!」と笑顔になってしまいました。肩からストンと力が抜けるのがわかりました。

・・・・・・ということは、私肩に力が入っていたようですね。
ちょっと身構えるように過ごしていたのかもしれません。

力を抜いたついでに、熱いお茶を淹れて飲みながら、CMの動画を探して観ました。
伊藤ハムのCMですね。真央さんの明るい笑顔の癒しパワーに、改めて驚いた私です。応援しているつもりなのに、私の方が幸せをもらっているんですよね。同じ様な方、いらっしゃるでしょうか。

真央ちゃん、応援してます!
こんなおばちゃんパワーでも良かったら、役に立ちたい!!


2012年6月20日水曜日

テレビで言っていることを・・・

疑いなく信じていた頃がありました。

信じなくなってしまったのは、
信じられなくなってしまったのは、
いったい、いつからだろうかと、そんなことを考えたことがあります。

もちろん私は、全部正しいことを言っている人などいないと思っていますから、多かれ少なかれ真実でないことも紛れているであろうとも、中には間違いもあろうとも思っていました。
ただ、より真実に近づこうと努めているはずだと、疑うこともしませんでした。

何故、疑ってみなかったのか・・・・・・
今思えば、不思議な感もありますが、それが常識的な考えだったのです。
規則として縛らなくても、わざわざ明文化していなくても、良心に恥じることはしないというのが、日本人の矜持でした。
権力を手にして忘れてしまった方もいらっしゃるようですが、今なお多くの人々が、心に持っているものだと思っています。だからこそ、そうではない人が臆面も無く行っていることを、なかなか本当だとは思えなかったし、認めたくも無かったのかもしれません。

そんな他者を尊重する気持ち、自身が遜る気持ち、それを押し退けるほどの疑いにまで、なかなか至らなかった私ですが、「いくらなんでも、これは酷い」という憤りから、今まで信じていたものを疑って見る様になったのです。

ここまで物事を歪めて伝えるということは、どういうことなのか。
何の意図があるのか。
何故、誰も止めようとしないのか。

真実はどうなのか。

平和な日常を送りながら、思考に明け暮れ、彷徨った毎日でした。
だってそうでしょう?一見平和に見える日常であっても、砂の楼閣は崩れるものなのです。そんなものが当てになるはずが無いのですから。歪みを正すには、歪んだ部分を見つめて認めるしかないのです。

損得で考えれば、絶対に「損」ですよね。見て見ぬふりをしていたほうが「得」なのでしょう。
そんな打算を突き破ったのは、バンクーバー五輪での浅田真央さんの演技でした。
彼女は正に「警鐘」を鳴らしたのです。
その警鐘で、私の中で何かが揺り起こされたのです。

一つ気付けば、次々と目に付くようになります。
ぞっとするようなことばかりで、目を覆いたくもなりますが、目を閉じてうずくまっていても何も変わりはしません。
ならば目を開いて、目の前のことから一つずつ一つずつ行動するしかないと思いませんか。
小さな力かもしれませんが、集まれば、つむじ風くらいは起こせるのではないでしょうか。

今すぐに出来る行動の一つです。
一緒に風を起こして、黒い帳を吹き飛ばしてみませんか。

2012年6月16日土曜日

「書く」って、難しい・・・

「家庭の事情」で、バタバタと日々を過ごしております。
ネットを閲覧する時間は、辛うじて取れておりますが、ブログを書く余裕が無い!
(・・・などと、言い訳をしてみる私・・・)

次々と思い浮かぶことはあっても、それを文章にするって本当に難しいと、改めて感じています。
書きかけては途中でとまり、開いてみては閉じる、そんな「下書き」がいくつもありますが、仕方ないですねぇ。私は、「思い」はその時でなくては伝わらない、と思っていますから。次々と違う情報に触れるうちに、別の面が見えてきたり、変化してきたりしますもの。とは言っても、裏が表になったり、白が黒になったりはしませんが。

日常で使っている言語で、日々思うことを表現するだけで、こんなにエネルギーを必要とするのです。表現する、伝えるということの、なんと難しいことか。

私達が色々と考えてしまうシーズンオフですが、選手の皆さんは充実して過ごしていらっしゃるでしょうか。
「演技では歌うように台詞を話し、歌では語るように歌う」というような話を、由紀さおりさんが話していらっしゃいましたが、フィギュアスケートなら、「舞うように滑る」とでも言えばいいでしょうか。決してスケーティングを重視していない訳ではなく、確かな技術を駆使しながら優雅に舞う、そんなのが理想のように感じています。そんなゾクッとするような演技を見たいし、それが評価されるのも見たい。

目的地にまっしぐらの一本道は、何度歩いても同じだけれど、例えば森の中の小道なら、通る度に景色も変わるし、道筋さえも変わるように、私は幅の狭い薄っぺらな表現より、見る度に様々に見える広さと深みのある表現に惹かれます。

採点者の方々は違うのでしょうかね。立ち止まって考えて欲しいものです。

2012年6月5日火曜日

ちょっと忙しくしていた間に・・・・・・

ご無沙汰でした~♪

ちょっと、家庭内での事情で離脱しておりました。
一段落ついたので、復帰します!
(何の宣言をしてるんだか、自分で分からなくなってますが・・・)

あれやこれやと事件もたくさんあったようですね。
ざっと目を通してはおりましたが、意見をまとめる暇が無かったと言うか、呆れてものも言えないものばかりだったと言うか、困るところですね。

ざっくり乱暴に言ってしまえば、みんな根っこは同じに見えます。
マスコミ総出で、都合の良い方向に世論を誘導したい意図が見え過ぎて、不快感が増すばかり。
こういう時に中立の立場で、はっきりとモノが言えなくて、何のための報道機関なんだと呆れるばかりです。

法治国家なんですから、法律に則って判断するべきですし、それに従うべきです。
自分に都合が悪かったら捻じ曲げてもいい、そんな訳は無いのですから。
誰もに都合の良いルールなどあり得ないと思います。ルールに従えば、みんな少しずつ損をするかもしれないけれど、安心や安全が得られれば、結果としては得なんです。
様々な人が集まった社会では、みんな少しずつ譲らねば共存できないでしょう?

たとえそのルールに抜け道があったとしても、良心に基づいて抜け道は使わないという選択も、当然あるのです。
一般に、「臆面も無く」と形容されるような事柄は、常識のある人ならば恥ずかしくて出来ないはずである、という共通認識があったからこそ非難されていたのですが、昨今ではその「常識」が揺らぎつつある日本であると感じますね。

取り戻さなければなりません、譲り合う常識、思いやる常識、そして、恥じる常識を。

最近のニュースについて考えたつもりでしたが、読み返すとそのまんまフィギュアスケートに当てはまりそうな気がしますね。
「嫌な感じ~」で済ますなんて、もうたくさんですから、フィギュアに限らずおかしいことは「おかしいんじゃないの?」と発言したいと思っています。