2014年11月22日土曜日

衆院解散、そして選挙

また、騒がしくなりますねぇ。
しかし、これで総理任期があと四年になるというのも、安定した政権運営には良いことですね。

地元倉敷は、長く自民党優勢が揺らがぬ土地柄でしたが、例の政権交代騒ぎの頃から自民候補が苦戦することも多くなりました。
しかし私は、自民だ民主だよりも何より、あの柚木なんとかが大嫌いで、街頭に立っているのを見かけたら遠回りしても避けることにしています。以前は知らん顔して素通りしていただけだったのですがねぇ。
あの人ときたら、近寄ってくるだけじゃなくて、突然手を掴んで無理やり握手を強要するんですもの。実は私、十数年前からリウマチに苦しんでおりまして、特に右手首が痛いんです。見ただけでは全くわかりませんけどね。そのかばって生活している右手を、突然意に反してあらぬ方向から掴まれ、その上振り回されたらとお考えくださいな。激痛に思わず「痛いっ!」と声を上げた私に、彼は驚いただけで謝罪もしなければ大丈夫かの気づかいもありませんでしたよ。あんな人に、人の痛み云々などとは口にしていただきたくないものです。

マスコミは相変わらず、都合のいい切り口の解説ばかりを流すことでしょう。フィギュアと全く同じですよね。それならば私たちは自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の頭で考えて、そして自分の心で感じて判断しなければね。

これ見よがしに騙されぬ目を持ちたいと、常々願っておりますが、この場面でも同じこと。
何事も上っ面だけでなく、奥行きの深さ広さを見たいものです。

2014年11月9日日曜日

気になった記事

ヤフーニュースで見た記事です。納得すると同時に怖さを覚えました。
本当に、この方のおっしゃる通りだと思うのです。

羽生選手に「感動」するだけでよいのか? 誤ったスポーツ観が選手「生命」を奪う 脳震盪後、1日は安静に

内田良 | 名古屋大学大学院教育発達科学研究科・准教授


羽生選手の姿に「感動」の問題点

この週末(11/8-9)、スポーツ医学の中核を担う「日本臨床スポーツ医学会」の学術集会が東京で開かれている。脳震盪(のうしんとう)に関する調査研究がいくつも発表され、日本のスポーツ界において、脳震盪への対応が喫緊の課題であることを感じさせてくれる。
まさにその最中に、羽生結弦選手の事故が起きた。それは端的にいうと、(脳震盪であったとすれば)その事後対応は、多くのスポーツドクターが目を疑う光景であったといってよい。
フィギュアスケートのGPシリーズ第3戦。羽生結弦選手は、フリー演技前の練習中に中国の選手と正面衝突し、顔面からリンクに倒れていった。羽生選手は、一度は起き上がろうとしたものの起き上がることができず、リンクに仰向けになった。脳震盪の症状があったのではないかと疑われる。
なお補足までに言っておくと、「脳震盪」とは、意識消失のみを指すわけではない。頭痛、吐き気、バランスが悪い、めまい、光や音に敏感など、その症状は多岐にわたる。このことさえ、一般にはまだよく知られていない。
話を戻そう。羽生選手は、倒れてから10分後には練習に復帰した。そして、さらに本番にも登場した。本番は転倒をくり返しながらも、幸いにしてなんとか演技を終えることができた。
さて、ここで最大の問題は、その姿を、マスコミや観客、視聴者は、「感動した」「涙が出た」とたたえたことである。
羽生選手側にもさまざまな事情はあっただろう。今回はそのことは置いておくとして、この事案から、脳震盪の怖さと日本のスポーツ文化のあり方について考える必要がある。

「魔法の水」の時代はもう終わった

「魔法の水」という言葉をご存じだろうか。ラグビーの試合中に選手が脳震盪で倒れたときに、ヤカンに入れた水(=魔法の水)を選手の顔にかける。選手は水の刺激で気を取り戻し、競技に復帰する。観客はそれを、拍手でもってたたえる。
いま、プロの公式戦でそのような姿をみることはなくなった。なぜなら、脳震盪の症状があらわれた場合には、試合を続行してはならないという考えがスポーツ医学の常識となったからである。「魔法の水」の時代は、もう終わったのである。
なぜ、試合を続行してはならないのか。
脳震盪について考えるときには、交通事故による脳震盪とスポーツによる脳震盪のちがいを認識するとよい。その決定的なちがいというのは、スポーツでは脳震盪を含む脳損傷が、「くり返される」可能性が高いということである。
交通事故をたびたび繰り返す人はそういないが、スポーツの脳損傷はくり返される。そしてそうした脳へのダメージのくり返しが、致命傷になりうることがこの数年、脳神経外科医の間ではもっとも重大な関心事となっている。
しかも恐ろしいのは、脳へのダメージがくり返されるときには、2回目以降の脳への衝撃がそれほど大きくなくても、致命傷になりうるというのである。字義どおりの、選手「生命」の危機である。

柔道事故からの教訓

脳へのダメージがくり返されることが致命傷となる。
その危機感を可視化させたのは、2009年頃から話題になった柔道による重大事故であった。柔道では学校管理下だけでも過去30年に118件の死亡事故が起きている。この数年を振り返ってみると,たとえば、2011年には名古屋市内で、柔道で投げられて頭部を打ち付けて,「頭が痛い」と言っていた高校1年の生徒が、数週間後にまた頭を打ち、そのまま頭痛を訴えながら,3回目の頭部の受傷により命を落とした
また今年の3月には、沖縄県の町道場でも小学3年男児が同じような事故に遭った。男児は柔道の練習中に、頭が痛いと感じそれを指導者に訴えたものの、最終的には男児が練習を続ける意志をみせたため、練習を継続。その後男児は、意識を失い倒れる。急性硬膜下血腫を発症し,重大な後遺症が残る事態となってしまった。
このような事例は,まだまだある。これらは率直に、指導者が、くり返しの脳損傷に敏感であれば、明らかに「防げた事故」である

脳震盪後、24時間は競技に復帰すべきではない

スポーツ時に脳震盪が生じたときには、それをくり返さないことがとても重要なことである。それゆえ、「競技復帰」には慎重を期すべきである。
脳震盪問題に早くから取り組んできたラグビー界は、この競技復帰のあり方について詳細な取り決めをおこなっている。日本ラグビーフットボール協会(JRFU)では、国際ラグビー評議会(IRB)の規定にならって、医師が状況を管理してくれる場合は「受傷後最低24時間」、医師により管理されない場合には「最低14日間」は競技に復帰すべきでないという方針である。
この基準に照らし合わせると、仮に羽生選手が脳震盪であったとすれば、羽生選手は、医師の管理下にあったと考えられるため、それでも「受傷後最低24時間」は安静にすべきだったということになる。
羽生選手の側には、本番をこなさなければならない事情もあるだろう。ファンの声に応えたい気持ちもあっただろう。そのことは個別の問題として置いておくとしても、どうしても気がかりなことがある。それは、脳震盪に対する関心の低さと、脳震盪(の疑い)を乗り越える姿が美談化される日本のスポーツ文化である。日本のスポーツ文化は、根性で危機を乗り越える場面を、拍手でもってたたえる。そこには感動の涙が溢れている。
脳震盪の可能性が疑われるのであれば、どうか今回の出来事を機に、考え直してほしい。そうした「拍手」や「感動」は、選手の生命をむしろ危機に追いやる可能性があるのだということを。
※冒頭のシルエット画像は,「シルエットAC」より入手した。

内田良 名古屋大学大学院教育発達科学研究科・准教授
学校での各種事故(スポーツ事故,組体操事故,転落事故,交通事故,自殺など)の事例を収集し,隠れた実態を明らかにすべく,研究をおこなっています。柔道事故の問題では,30年間で約120名の死亡があることを明らかにし,事故防止の必要性を訴えました。事故調査委員会の委員就任をはじめ個別事案との接点も多く,また啓発活動として教員研修等の場で各種事故の実態と防止策に関する情報を提供しています。専門は教育社会学。博士(教育学)。著書に『柔道事故』(河出書房新社),『「児童虐待」へのまなざし』(世界思想社,日本教育社会学会奨励賞受賞)。お問い合わせはこちら:dada(at)dadala.net

http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20141109-00040588/


あなたはどうお感じになりましたか。
「知らなかった」では済まない問題だと思われませんか。
上げるべき声を上げないこと、ただ傍観すること、むやみに賞賛することは、決して選手のためにはならないし、競技の発展にも寄与しないと思われませんか。

選手たちは「一人」で戦っています。孤独な戦いに追い込むことだけはあってはなりません。
声を上げ続けることが必要なのだと思います。

 

あんなハプニングはいらない!

GPS中国大会のライブ中継。観始めた時には、まさかあんな事故が起きるなんて、思ってもいませんでした。
見ているだけでもきゅっと心が痛んだのは、きっと私だけではなかったと思います。

直前練習の混雑したリンクでの事故は、不幸なことに度々起こっています。しかし、私が昨夜感じたのは、今までとはちょっと違ったものでした。

ぶつかって倒れこんだ選手が、そのまま放置されていたこと。
選手自身が立ち上がって、自力でリンクから上がったこと。
簡単な手当の後、試合に出場したこと。

これでいいのかと、疑問ばかりが膨らみます。
なぜ適切な救護が、迅速になされないのでしょうか。頭部を強打するというのは、深刻な影響を懸念すべき緊急事態です。大事を取るに越したことは無いと思います。選手本人が出場にこだわっても、冷静に諌めて止めることが必要だったのではないでしょうか。


加えて、

棄権を避けて滑ろうとする選手を、ことさら美談のように煽る実況。
精彩を欠き、転倒も多発する演技に、不似合いな得点を与えること。



羽生選手が高難度のプログラムで挑んでいること、転倒の減点はなされていること、その上での採点であること等を考えても、やはり疑問が残ってしまいます。少なくとも採点は、選手個々の事情に関わらず、全ての選手に平等に公平になされなければ、「採点」の意味はありません。

その場で為された演技だけを、ただ淡々と評価して欲しい。栄誉や賞賛は後からついてくるもの。
そう願って久しい私ですが、この願いが叶う日は来るのでしょうか。