疑いなく信じていた頃がありました。
信じなくなってしまったのは、
信じられなくなってしまったのは、
いったい、いつからだろうかと、そんなことを考えたことがあります。
もちろん私は、全部正しいことを言っている人などいないと思っていますから、多かれ少なかれ真実でないことも紛れているであろうとも、中には間違いもあろうとも思っていました。
ただ、より真実に近づこうと努めているはずだと、疑うこともしませんでした。
何故、疑ってみなかったのか・・・・・・
今思えば、不思議な感もありますが、それが常識的な考えだったのです。
規則として縛らなくても、わざわざ明文化していなくても、良心に恥じることはしないというのが、日本人の矜持でした。
権力を手にして忘れてしまった方もいらっしゃるようですが、今なお多くの人々が、心に持っているものだと思っています。だからこそ、そうではない人が臆面も無く行っていることを、なかなか本当だとは思えなかったし、認めたくも無かったのかもしれません。
そんな他者を尊重する気持ち、自身が遜る気持ち、それを押し退けるほどの疑いにまで、なかなか至らなかった私ですが、「いくらなんでも、これは酷い」という憤りから、今まで信じていたものを疑って見る様になったのです。
ここまで物事を歪めて伝えるということは、どういうことなのか。
何の意図があるのか。
何故、誰も止めようとしないのか。
真実はどうなのか。
平和な日常を送りながら、思考に明け暮れ、彷徨った毎日でした。
だってそうでしょう?一見平和に見える日常であっても、砂の楼閣は崩れるものなのです。そんなものが当てになるはずが無いのですから。歪みを正すには、歪んだ部分を見つめて認めるしかないのです。
損得で考えれば、絶対に「損」ですよね。見て見ぬふりをしていたほうが「得」なのでしょう。
そんな打算を突き破ったのは、バンクーバー五輪での浅田真央さんの演技でした。
彼女は正に「警鐘」を鳴らしたのです。
その警鐘で、私の中で何かが揺り起こされたのです。
一つ気付けば、次々と目に付くようになります。
ぞっとするようなことばかりで、目を覆いたくもなりますが、目を閉じてうずくまっていても何も変わりはしません。
ならば目を開いて、目の前のことから一つずつ一つずつ行動するしかないと思いませんか。
小さな力かもしれませんが、集まれば、つむじ風くらいは起こせるのではないでしょうか。
今すぐに出来る行動の一つです。
一緒に風を起こして、黒い帳を吹き飛ばしてみませんか。
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