義務教育の中で、私が受けた道徳教育を含む教育全般を、振り返って思い出す機会の一番目は子供たちの学校教育を通じてでした。
総じて感じたことは、なんて中身の薄い授業の連続か・・・・・・でした。
小中学校を通して12年間、担任の先生だけでも相当な数になります。その間にこの先生は信頼できる、相談しても親身に考えて下さる、そう思えた先生はたった二人でした。
そのどちらの先生も「怒るととっても怖い」と定評のある男性でした。
しかし我が子たちは、その先生を「怖い」と言った事は一度もありませんでした。
それどころか、その先生の事をとても好きだと言っていたのです。
どうして怖くなかったのか・・・・・・
どうして大好きだったのか・・・・・・
その答えはとても簡単なことです。
その先生は厳しくはあっても、決して理不尽な怒り方はしなかったから。
叱られる立場の子達、云わばルールを守らなかった子供達には、止めるまで或は始めるまで、指導を続けるから「厳しく怖い」と感じた子がいた。
一方、その子達の行動で困っていた子達には、見過ごさず指導し、頑張っていることは認めてくれる、真に優しい先生だった。
そういうことだろうと思います。
「等しく扱う」「えこひいきはしない」ということは、そういうことではないかと常々思うのですが、現実には優しかったり、相手の立場を思いやることが出来たりすると、常に我慢を強いられ、不利益も受け入れて我慢させられることが多いのではないかと感じます。
信用は積み重ねるもの。
失うのは一瞬。
そう思って生きてまいりましたが、昨今の出来事を見ていると、プラスの実績もマイナスの実績も、都合次第で度々チャラにされて、基準まで勝手に書き換えられるものになってしまってはいないか、そんなことを感じることが度々あります。
ルールは信じて守った者を裏切らないものであって欲しい。
そんな願いは現実世界には無理なことなのでしょうか。
自由も平等も、守るものではあっても振りかざすものではない。
権利を主張する為には義務を果たせ。
もう一度厳しく伝えたいものです。
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