フィギュアスケートを通して感じたこと、それは日常のあれこれから感じていたことと、根を同じくするものだった気がします。
例えばそれは教育の場であったり、企業の中であったり、政治であったり、ありとあらゆる場で日常的に感じてきたことです。
人は皆、無知であり、未熟であり、間違うものであると思います。当たり前のこととしてそう思うのです。そして、そのこと自体は、決して咎められるほどに悪いことでも何でもないと思うのです。
そのことを無理やり正当化して、権力をもって他に強いない限りは。
未熟であり至らないからこそ、謙虚に耳を傾け、他者を尊重し、認め合ったり諌め合ったりしながら生きていくものではないかと、そう思います。そのためにこそ必要な、指導者であったり責任者であったりするのではないでしょうか。その立場であっても人である限り、当然、未熟さや至らなさや間違いを避けることは出来ません。導くためには自身もまた、日々向上を続けるべく努めねばならないでしょう。
他者を尊重し、認め、敬意をもって接していれば、過ちは自然と正されて、軌道を常に修正しつつ進むことができるでしょう。しかし、もしもそこに、慣れや慢心や驕りが根付いてしまったら、どうなりますか。向上を止めてしまったら、どうでしょうか。
人は弱いもので、高い地位や評価を持ったり、強い権力を持ったりしたままで、冷静にかつ厳しく自分自身を評価するというのは、なかなか出来ません。ともすれば楽な方へ、心地よい方へと流されてしまうものです。個々ではもちろんのこと、集団なら尚更流されぬ強さは、並大抵では持ち得ません。だからこそ、指揮を執る者は、より厳しく自身を律してゆかねばならぬはずです。権力を持つ者ほど、より厳しくそうあらねばならないのです。その姿そのものが、集団を導いていく方向を決するのだと思います。
今、フィギュアスケートを競技として見る時に、ごく一部の人を除いては、その厳しさや緊張感を感じることができません。審判団にも、ISUの面々にも、スケ連のお歴々にも、感じることはありません。その姿勢こそが、フィギュアスケートという競技を崩壊させたと、そう言いたいと思います。
正す機会はたくさんあったと思います。それなのに彼らには、それを正す気概どころか、認める勇気すら無かったのです。目を瞑っても顔を背けても、危機が去る訳ではありません。本質を見極めて必要な措置をとるという、リーダーがすべき危機回避をしなかった彼らが、より大きな危機を招いたのです。
ぎりぎりで回避できるのか、否か。
結果とその責任は、いつものように選手に被せたりなぞせずに、責任者たる方々に負うていただきたいと思います。
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