「頭がお花畑」という、ネットではよく見かける言葉があります。褒め言葉ではありませんよね。
私の世代以上の方が、主に指されていると思いますが、無理からぬ事と理解もしています。
高度成長期に生まれ育って、悲惨な時代は知らない。
私達にとって、日本は昇る国であり、古きよき時代を経た成熟した国でもあると信じていました。
戦争体験のある世代は、物が無かった話はしても、それ以上の具体的な話は避けていたようでしたし、私も聞いていて楽しい話ではありませんでしたので、それ以上には触れませんでした。
学校で教わるのは、平安時代から明治時代までが主で、昭和に入ってからの話は駆け足で通り過ぎるだけ。いわゆる「自虐的な歴史」に触れる先生もいれば、何も語らぬ先生もいる、それが普通でした。今思えば、声高に語る話に真実があったとも思いませんし、多くを語らぬ先生は、必要以上に冷静に公平に語ろうと努めていたように感じますが、小学生にそれはわからぬことでした。
心に残ったのは、「日本は何かひどいことをしたんだろうな」、「このことはおじいさんおばあさんには聞いてはいけないみたいだな」というような、妙な後ろめたさを伴うものでした。
何より、あの頃にはそれを確かめる術がなかった・・・・・・
語る場も無かった・・・・・・
聞く機会も無かった・・・・・・
知る機会が無かったのです。
そんな私が、初めてマスコミがおかしいと感じたのが、消費税導入の選挙の頃。
確信したのが民主党に政権交代が起こった時でした。
それでも、日常で不満を漏らしながらも我慢するしかないと思っていました。
何をやっても変わるわけが無いと。
しかし、バンクーバー五輪シーズンのフィギュアスケートを観て、一人で戦う真央さんを見て、苛め抜かれる真央さんを見て、何か出来ないかと強く思うようになったのです。
良い話も悪い話も読み漁りました。ネット動画も探し回りました。
それを繰り返して、一つの思いに至ったのです。
やはり何か作為があると。
納得できないことには納得できないと発言しよう、出来ることから始めよう、そう思いました。
否やを唱えぬことで、その場は丸く収まるかもしれませんが、その後は益々状態が悪化することをみんな知っているはずです。
それなのになかなか言えない「人の良さ」は、同じ様な者同士で付き合うには好ましいのですが、付け込もうとする者が混ざる場では危険な要素になるでしょう。
後の諍いを避ける為にも、その時に「否」を言わなくては。
始まりは「フィギュアスケート」でも、これはもう「社会的な問題」「政治的な問題」にまで広がってしまっているし、これをきっかけに「物言う民」にならなくては、と思っています。
私の第一歩の活動に賛同下さる方をお待ちしております。
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